天気の子 設定・物語面での感想:ネタバレあり

Twitterでプロットがエロゲそのままだとか騒いでしまい、中身について全く話していなかったので、取り留めもないが設定を含め感想を少し書き留めておく。

全体的な感想

一晩経って思い返してみると、感想は「君の名は」にかなり近い。空想と想像で補完する前提とはいえ、プロットと人物描写はかなり雑だと思う。でも、「君の名は」と同じく、これはそういう映画ではないのだと思う。ビジュアルと音楽のパワープレイで、捕まった人の感情を濁流のように押し流そうとする、そういう類の映画。気になるのは、これに捕まる人が果たしてどの程度いるのかということだが…それはまた別に書くかもしれない。

陽菜は晴れ女なのか?

陽菜は願いとともに鳥居をくぐった時、稲荷が憑いて晴れ女となったのだろう。陽菜に憑いたのは龍だという考えもなくはないが、素直に考えれば晴れ女だろう。

東京を雨の世界に変えたもの

だとすると、東京を雨の世界に変えたものは一体なんだったのだろうか?可能性として、1つは単なる気象の変化であるというもの、そしてもう1つは劇中でほぼ語られることのなかった「龍が憑いた天気の巫女」によるもの。映画のメッセージからは、どちらと取ることもできる。

もうひとりの天気の巫女は存在するのか

仮にこの雨が天気の巫女によるものだとすると、それは一体誰なんだろうか?

1年前、陽菜が母親の看病をしていた時、東京では既に長期間の雨が振り続いていた。局地でなく東京全体を雨の世界に変えたのであれば、巫女は陽菜と同様に東京から消え、空とつながって永遠の雲(OSTタイトルから)の上に連れ去られたはずだ。その時期に消えた人物は、劇中では一人しかいない。

それは、数年前に事故で亡くなったとされている須賀圭介の妻、明日香だ。明日香が雨を願い天気の巫女として目覚めたとすると、オカルト関連の仕事をしていること、晴れ女に強い興味を持っていたこと、そして穂高と対になるような役どころとも関連ができてくる。

もしそうだとすると、雨を願った理由は娘の病気のためだろうか?雨が降ると空気中の塵は流され、清浄になる。雨が降ると娘の体調が良くなっていたのだとしたら、娘の成長を願って東京を永遠に雨の世界に変えたのかもしれない。作中では何も語られないので、わからない。

穂高と陽菜の特別な経験は世界を変えたのか

とすれば、穂高と陽菜がしたことは、"世界の形を決定的に変えてしまった"のではなく、"決定的に変えられてしまった世界を元に戻すことを止めた"に過ぎないことになる。そういう意味では、圭介の言うように「世界は元々狂って」いて、「自分たちが世界の形を変えたと考えるのは自惚れ」なんだと私も思う。これは大人の視点でもある。

それでも、穂高と陽菜にとっては特別な経験であることに変わりはないし、多くの人の願いを受け止め、世界を元に戻す機会を自ら手放したことは、世界の形を変えてしまったことと変わらないのだろう。そしてそれは、どちらでもいいのだと思う。いずれにせよ、穂高は皆の願いより、自らの願いに従って陽菜を選び、陽菜がそれに応えた。そして、世界が変わったからといって人々が絶えるわけでもなく、人々も移ろいゆく世界に適応して生きていく。日々は、生活は続いていく。それでいい、という映画なのだろう。

"特別"が溢れ、変わり続ける世界

そしてさらに言うなら…「世界の形を決定的に変えてしまう」穂高や陽菜のような出来事は、たぶん特別なことではなく、ありふれた出来事なのだ。彼らの物語の趨勢は、実は特別な能力があってもなくても然程変わらない。

世界は常に移ろっていて、それが誰のせいかなど、誰にもわからない。

もしかしたら、昨日すれ違った二人が、世界の何かを決定的に変えてしまったのかもしれない。そのために、自らを捨てて世界を変えることを選んだのかもしれないし、あるいは世界を変えるより、自分を選んだかもしれない。変わりゆく世界を留めることより、誰かといることを選んだ人もいるかもしれない。そういうふうに、この世界は出来ている。だからこの映画は、そうしたありふれた世界と人々への祝福でもあるのだ。

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